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中曽根康弘元首相の読売新聞の寄稿文。その満州事変の歴史背景 [時事]

戦後70年にあたり、中曽根康弘元首相(97)は読売新聞に寄稿しました。
アジアとの戦争は「侵略戦争だった」と認め、先の大戦を「やるべからざる戦争であり、誤った戦争」と総括した。
こうした否定的な歴史を直視しなければ、近隣諸国から信頼を得ることはできないと指摘されました。

1915年の「対華21か条要求」以降、侵略的要素が強くなったとし、「中国民族の感情を著しく傷つけたと
言わざるを得ない」と寄稿されました。

確かにそうですね。
(´・ω・`)
「70年談話へ有識者懇報告書 」でも「満州事変以降の侵略が明記されました」

では、どうして満州事変、そして中国への侵略の始まりでもある「対華21か条要求」が中華民国に要求されたのでしょうか?

原因は日露戦争までさかのぼります。

日露戦争に日本はかろうじて勝利となりました。
ロシアの満州権益の旅順、大連や南満州鉄道(旅順~長春間)を譲り受けます。
しかし、満州は清の故地です。
清は満州族が起こした国で、中国史上でも稀な巨大帝国となりました。

さて、ロシアはその満州を侵略して朝鮮半島を伺うようになった時点で、日本と対立して戦争が起こってしまうのですが、戦後の交渉で、満州の北をロシアと南を日本と分け合うという密約を交わします。
もちろん、満州は清の領土です。

さて、それが1912年の辛亥革命により中華民国が建国。
これ以後、中国は軍閥が各地に割拠し始めます。

第一次世界大戦で連合国側だった日本は戦勝国として空前の好景気で、しかも列強と肩を並べました。
その弱った中国に突きつけたのが、日本の保護国となるように迫った「対華21か条要求」です。
(´・ω・`)
ここから、中国に対する侵略が始まります。
って、いうよりも、中国の弱体化と第一次世界大戦でアジアにかまっていられない欧米列強の情勢から日本はの中国の利権を拡大して中国を植民地化しようとしたのです。

時を同じくして中国の各軍閥は他の国々と通じて、独立を画策し始めます。
満州も軍閥の張作霖が割拠して、日本とロシアを手玉に取ろうとしました。

そして、日本の好景気はそうそう続かず、1923年に関東大震災、1927年には金融恐慌、1930年には昭和恐慌と続いていきます。
その現状を打破する事を大陸進出を訴える者も出てくるようになります。
満州に駐留している関東軍が1931年に満州事変がおこします。

政府も天皇もこの軍事行動に反対し、戦線不拡大を命令しましたが、関東軍は無視して満州のほとんどを占領してしまいます。

これ以後、政府が軍部を止めることができなくなりました。
(´・ω・`)
満州は清の最後の皇帝の溥儀が皇帝として満州国が建国されますが、溥儀にとっては満州族のふるさとに帰ってきた訳ですが、当然の如く傀儡国家となりました。

もし、満州事変を政府が引き止める事が出来たのならば?
歴史はどうなったでしょうか?
この満洲事変は日本の国際連盟脱退の原因になって、日本は国際的に孤立しました。
そして、ドイツとイタリアと結んだ「三国同盟」によって、アメリカから「ハル・ノート」が突き付けれて、連合国とは「無条件降伏」以外の戦争終結が出来なくなります。
日本の歴史のターニングポイントとなった「満州事変」ですが・・・
(´・ω・`)
軍部という日本の官僚政治が一番悪い形で独走してしまった訳です。

実際、この満洲事変は侵略として国際的に非難を浴びましたし、私もこれは満州への侵略だと思います。





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