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「花燃ゆ」の吉田寅次郎が松蔭と号しているのは何故? [ドラマ]

大河ドラマの「花燃ゆ」の野山獄での吉田松蔭の孟子の講義も始まったところで・・・。
吉田松陰の唯一の親しい女性だったのではないか?
と、いう高須久子も出てきたところで、ところで、寅次郎って、なんで松蔭って号したの?
と、いう疑問を持つ人もいるかも・・・。
(´・ω・`)
いないかなぁ・・・。
でも、私は吉田松陰が高須久子と仲は良かっただろうけど、恋仲みたいになったとは思えないんですよね。
男で心酔している人は沢山いるんですけどね。

と、いう訳で、ちょっと脱線、松蔭の元ネタなんですが、高山彦九郎という尊王活動家が号したのが松蔭です。
戦前ですと、有名でした。でも、銅像がある京都や地元の群馬の方はご存知かも知れません。

さて、この高山彦九朗は江戸後期に活動した寛政の三奇人と言われる傑出した人物で、戦前は二宮尊徳や楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられた人物です。
実際、その後の幕末期の尊王活動家に多大な影響を与え、まさに行動!
と、いう方でした。
それこそ全国を駆け巡り、数々の名士と交流して尊王を説きました。

吉田松陰はこの方に憧れておりまして、高山彦九郎と同じ号である松蔭と号したのです。

・・・むしろ、憧れるなら国防の学者として林子平だろう?
って、思いますけど、吉田松陰自身は学者としてでは無く活動家として生きたかった証拠ですね。

高山彦九郎は群馬の郷士の出身で、とても高い身分とはいえませんでした。
その田舎から志を得て、全国の名士と交友して尊王活動をしました。
ところで、じゃあ高山彦九郎は吉田松陰のような人かといわれると、タイプは全く逆の豪傑です。
剣の達人でもあり、何ともスゴイ漢でした。
そして、そういう男前なので妻子もあって・・・っていうか、妻が二人いました。
しかも同時期・・・。
(´・ω・`)
ここについては、色々とあったようですが、妻たちも納得していたようです。
と、いう訳で高須久子が出てきたので、思い出してみたって感じです。
高山彦九郎は幕府に追い詰められていき、46歳の時に自刃します。
長年の日記が残され、幕末期の尊王活動家で名を知らぬ者はいないというほどの先駆者となりました。
吉田松陰が高山彦九郎の後塵を拝する!
と、言って行動の人生を送りました。
まさに途中で死ぬ覚悟だったのですね。
(´・ω・`)
まあ、そういう訳でそっち方面では、憧れの高山彦九朗とはまったく違っていたみたいです。


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