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「花燃ゆ」の吉田松陰の密航の背景 [ドラマ]

大河ドラマの「花燃ゆ」も吉田松陰の密航事件にまで話が進みましたね。
(´・ω・`)
密航に失敗したのはアメリカはまだ幕府と交渉中という、微妙な状況だったからですし、
今、幕府と問題を起こしたく無かったからです。
ペリーの言うとおり、後数年待てば吉田松陰ほどの人物なので、絶対に行けたはずです。
万延元年遣米使節団は、五年後でした。

さて、吉田松陰は前回で長崎に来ていたプチャーチンのロシア軍艦に実は乗り込もうとしていました。
ロシアだったら、連れて行ってくれたかも知れません。
ロシアに密航したあの当時、記録に残っている「橘耕斎」も密航者がいますし、ロシアはかなり前から日本との交渉の為に、日本語学校があるので、教師となれるような人物であれば、歓迎していた事でしょう。
運命とはイタズラですね。
しかし、もしロシアへの密航に成功していれば、幕末史はかなり変わったかも知れません。
あの当時、日本との通商に一番熱心だったのは、実はロシアです。
オランダと日本との貿易を独占していた事で、莫大な利益を得ていました。
それを知って日本との交易を望んでいて、1705年にピョートル1世はサンクトペテルブルクに日本語学習所を設置し、漂流民の伝兵衛が日本語を教えました。
あの時代の150年前から準備していたのです。
江戸時代にロシアとの外交で数々の事件が起こっているのですが、結局は国交を結ばずにいましたが、あの当時も日本の情報が欲しくてたまらなかったはずです。
と、いう訳でそれを吉田松陰が知らないわけ無いのですが、アメリカも同じようなものだろう?
とか、思ったのでしょうかね。
(´・ω・`)
ある意味、最悪のタイミングでの密航事件でした。

実はペリーも知らんぷりをするつもりでしたが、ドラマ通りに吉田松陰と金子重之輔は自首しました。
自首してしまったというのを知った時に、寛大な処置を願ったのです。
牢に入れられて、衰弱した金子重之輔は、江戸の牢で病を得て、テレビでは流せないような病状のまま萩に移送されて、衰弱して亡くなってしまいました。
そして、吉田松陰も後の安政の大獄で死罪となる原因となってしまったのです。
密航から野山獄への流れですが、非常に色々なドラマがありました。

これから吉田松陰は牢獄生活が多くなります。
そんな中で溢れる国への志を記したのが、幽囚録です。
http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%B9%BD%E5%9B%9A%E9%8C%B2

まさしく、明治維新の建国から昭和の終戦まで、日本の方針となったという内容です。
この状態になって初めて、列強と対抗できるのだ。
と、まさに日本はそのように動きました。
(´・ω・`)
吉田松陰が亡くなるまで、後数年ですが、この思想を植え付けられた人たちが明治期の権力者です。
そういう訳でこれからが、明治維新の原動力となり、目標を定める指針と活躍が語られるのでしょう。
富国強兵による列強に伍する為の国家になり、軍艦外交で開国させられたアメリカと戦争できるほどになりました。

そういう訳で、まさに「幽囚録」から日本の帝国主義が始まったと思っておられる方々もおられるので、吉田松陰に対してあまりいい感情を持っておられないかたも多いのです。
(´・ω・`)
でも、もし吉田松陰が長生きしていれば・・・。
方向修正はされていったのでは?
と、思いたいですね。


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